2022年1月15日土曜日
2022年1月1日土曜日
《部屋/形態》
《部屋/形態》において絵具は部屋の中から流出することはない。その映像は完全変態の昆虫が厚いさなぎの殻の中で体の中身をすごい勢いで作り替えていく様を想起させた。
水にインクを垂らせばインクの粒子は自然に拡散し水の中に広がっていくように、自然界では物質の状態は全て乱雑さが大きくなる(エントロピーが増大する)方向に動く。そのため生物は皆、無秩序さを減少させて生態を維持しようとし続けている。しかしさなぎという状態は外界からシャットアウトすることで自分の体の組織をさなぎ内で作り替えることに集中する。つまり自然界から閉じこもることにより己の秩序を保ちながら変化していくのである。
窓を開ける(換気する)ということは、エントロピーが増大する不可逆なことであると言える。しかし、《部屋/形態》に登場する部屋は窓はあるものの開く兆しは無い。先ほどのさなぎのように、密室状態である。その密室内で絵具たちは蠢き自らを作り替え続ける。ただ、さなぎと異なるのは羽化という終焉がないということである。巻き戻しという映像の特性を用いることで、《部屋/形態》はさなぎであり続けることが可能になる。
一方ぬいぐるみというものは負のエントロピーの究極に近い状態と言えるだろう。散逸構造と無縁のぬいぐるみにとっては、表面に現れている色や形がその全てであり、詰め込まれている綿やビーズは内側からそのシルエットを補強するものにすぎない。内側と外側からの圧力差で、その外側の表面にぬいぐるみはあらわれる。
似て非なるものに着ぐるみがある。着ぐるみはウレタンやセシーナでキャラクターの外骨格を作るが、何よりの違いは中に人間が入るということである。空っぽの中身に人間という筋肉や内臓器官を補填することで命を宿すのだ。一方、人間サイドからするとそれは最小単位の密室だと考えることもできる。私は試作品の着ぐるみに入ったことがあるが、試作品だったので目は開いておらず、入るとそこは薄暗い個室のようだった。外からの声に任せて身動きを取ってみるけれどだんだん声の方向があやふやになってどっちが前でどっちが後ろなのかよくわからなくなった。進みたい方向や向きたい方向という欲望が私の内から無くなると、外の世界における「前」という概念は無意味なものに感じられた。それはただ私はここに立っていて、どんな方向を向いても目の前にはスポンジの壁が見えるという事実だけが確固たるものとして理解できる状況である。
2021年12月5日日曜日
テレビカード
テレビカードとはテレビを見るためのプリペイドカードだ。私がいた病院では同じテレビカードで冷蔵庫を稼働させることもできるとのことだった。入院期間は約2週間と聞いていたので、購入し使ってみることにした。
初めてテレビカードを使ってテレビを見た感想は「気が休まらない」だった。
テレビカードを使うためにタイマーという機械に入れるのだが、入れたら最後、テレビをつけるたびに公衆電話でテレホンカードを使う時のようにカウントが始まるのである。お金に余裕があれば別なのだろうが、その頃の私にとって1枚千円のテレビカードは高めの買い物だった。そのため、CMの間はもったいないからテレビを消して終わったであろう時間に再びつけたり等、様々にケチり方を試行錯誤していた。最終的にはCMがないNHKで気になる番組がないか番組表を素早くチェックして、気になる番組が3つくらい連続する時間を狙って見るようになっていた。しかし気になる番組とはいえ少しでも満足感に乏しい時はすぐ消してしまった。テレビカードはダラダラ時間を浪費することをお金の浪費として明示してきた。それは私のお金と時間を有意義に使いたい気持ちを刺激したものの、安静にするしかない身にとって心労が生まれたに過ぎなかった。
一方、カーテン越しの隣に入院していたおばさんは四六時中テレビをつけていた。当初はその財力に慄いたものの、テレビの本質はダラダラと見続けるところにあることに気がつくきっかけにもなった。
きっとあんまり先が長くなさそうなおばさんにとって、テレビは気晴らしになっていた。ダラダラとテレビを見続けることは多種多様な情報を否応無しに流し込むことであり、その間だけは問題を抱えた自分の肉体から目を逸らすことができたのだろうかと想像した。
2021年11月29日月曜日
せっかち
畠山さんが言うようにこの世はせっかちな人とのんびりな人に二分されるとすれば、きっと私はせっかち側になる。なぜなら、人に言わせるとぼーっとすることがあまり身に付いていないからだ。たしかにそうだと思う。古美研で寺に行って庭を向いて座った時、時間が経つほど私は自分の眼底側に焦点が移動して庭を全く見ていなかった気がする。普段から、集中すればするほど自分の脳内に焦点があっていく感覚がある。その脳内ではずっと何かと対話しているし、何も考えないで空っぽになる時間をあんまり必要としていない気もしてきた。そういえば「外部に開かれる」みたいな言説に共感できた試しもない。
私は「見た」と認識したもの以外本当に見えていないらしい。例えば、泊まった旅館の部屋に飾られた絵の存在に就寝前になってやっと気づく、というようなことが多々ある。逆に「見た」もののことは割と覚えている。私にとって見ることとは黒目を外部側に意識的に留めることであり、能動的なものなのだろう。しかしこれは私の性格だけでなくメガネにも原因があるのかもしれないと責任転嫁したい。私は普段から世界の、メガネによってフレーミングされている部分しか見えていないからだ。
余談だが、お世話になっている弱視の方にかなり下手な絵を見せられ「どうしたら絵が上手くなるのかしら〜?」と聞かれ、「よく見ることですよ」と答えようとして口をつぐんだことを思い出した。