2020年1月31日金曜日

がんばってレポートを書いた

錯乱のニューヨーク
マンハッタンとガーデニング

「ババアの違法ガーデニング」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは自宅前の歩道やブロック塀の外側、ポストの上といった敷地外に植木鉢やプランターを置いて行われているガーデニングを指しており、低層住宅街や路地裏で展開されていることが多い。日本語版twitterで生まれた言葉であるため日本での例が多く挙げられているが、台湾など海外でも見られている。似たものに「ゲリラガーデニング」というものがある。これは街中の花壇やアスファルトの亀裂、道路の穴などに勝手に花を植えたり庭を作ったりする行為だ。これは勝手に植えるだけ植えて必ずしも世話をするとは限らないという点があり、グラフィティ的なものの場合も含んでいる。このゲリラガーデニングはイギリスを中心に「愛される違法行為」として今も活動が行われている。このような違法行為が蔓延している背景に自然が無いという意味で都市部の環境が劣悪であること、地方のコミュニティがきちんと機能していないことがある。そのため公共の場所の庭や公園というその土地の植生やガーデンデザインなど充分に検討する必要がある場所でのガーデニングが個人の自己中心的な意思によって行われている。
しかし、マンハッタンは違う。マンハッタンにおいては自然も個人の自己中心的な意思決定ではなく資本主義に基づくマンハッタンの要請により制御される。グリッドにより仕切られた、その制限された土地の中に自然を収めたセントラル・パークという人工のアルカディア絨緞。さらに過密の文化の需要に応えるために、フロアを上へ上へと重ねることで増えていく収容面積。マンハッタンでは土壌もその対象となり、ロックフェラー・センターの低層部分の屋上に現代版バビロンの空中庭園が作られることとなる。マンハッタニズムという過密に基づく快楽主義的アーバニズムにおいてはアスファルトの亀裂から現れる土壌さえもマンハッタンの要請に応える義務を感じるのではないだろうか。
そもそも庭という言葉は住宅などの敷地内に設けられた建造物のない広場といった建てられない部分を指すものである。セントラル・パークは最終的に建てられた部分と建てられない部分の対比によりその庭的な要素を高めている。ここでいう建てられた部分と建てられない部分というのは地球の地表、つまり地面を指している。しかしロックフェラー・センターの屋上庭園は建てられた部分の上に庭を設けている。セントラル・パークとは違い、建てられない部分というものをこれ以上フロアを重ねて収容面積を増やさないという意味で空中に見ているのだ。
著者のレム・コールハースはマンハッタンのゴーストライターとなりこの本を書くことでマンハッタンというマニフェストの無いまま群生してできた都市にマンハッタニズムという一応の定義を与え、私たちにマンハッタンというものに一つの大きな人格のようなものを感じさせる。庭から見える、マンハッタンにおける「建てられない部分」を地面だけでなく空中にも見出すという新しい意識の変化のスピードは凄まじい。それによりマンハッタンの要請には応えられたかもしれないが、地球の要請には応えられているのだろうか。人間がマンハッタンの要請に応えるようにどんどん建物を立てていく様子は地球にとってはゲリラ的であり、マンハッタンという一つの大きな人格が行う、より人工的で大規模なゲリラガーデニングのようだ。それはグリッドという種子を規則正しくばらまいた瞬間から始まっていたのかもしれない。
この本はマンハッタンのための〈回顧的なマニフェスト〉の書としてだけでなく、現代都市を語る上で核心となりうる様々な点が示されている。著者の鮮やかな語り口もあり遠い国のおとぎ話のように感じてしまうが、地続きの同じ世界で本当にあった出来事であり、当たり前のシステムとして現在に組み込まれている現実の話であると意識せざるを得ない。