2020年12月31日木曜日

 最近、寝室の明かりをアイリスオーヤマの調光できて声で操作できるシーリングライトに変えた。
「アイリス、あかりをつけて」と言えば点灯するし
「アイリス、あかりをけして」と言えば消灯してくれる。

しかもそれだけではなくて
「アイリス、じょうやとう」と言えば常夜灯にしてくれる。実家では常夜灯ではなく「豆球」と呼んでいたのであまり言い慣れないけれど、そう呼びかければ薄暗くぼんやりとした暖色系の明かりに切り替えてくれる。

常夜灯にして布団に入ったとき、実家にいた小学生の頃は真っ暗で寝たいというこだわりがあったことを思い出した。
しかし怖がりな妹に頑なに拒まれていた。私的には真っ暗であれば目を開けても目を閉じているような状態になるので、眠りに落ちるまでの間がんばって目を瞑る筋力が要らず楽だったからどうしたものかと思っていた。ある日、私は常夜灯をつけると天井にできる影が勾玉型になることに気付いた。妹に「豆球点けると天井におばけがうつるよ」と言って怖がらせて、「真っ暗にした方が良い」という考え方にさせる作戦を取った。この作戦は大成功で、お互いが天井のおばけの話を忘れるまでの間、部屋を真っ暗にして寝ていた、気がする。多分この作戦を実行した時が1番こだわりが強くて、だんだんこだわりが薄らいでどっちでもいいと思うようになったので、時々妹が思い出して怖くなってきたら真っ暗にしていたような気もする。

実家にあったライトは「豆球」と呼んでいただけあって小さな豆電球みたいなものが別でついているタイプで、その1点から灯すようになるので天井に影ができていたけれど、今の寝室にあるライトの常夜灯は全体的にぼんやりと明るくなるので任意の形に見える影は発生しない。

この部屋の天井は真っ白なので、木目が顔に見えるようなこともない。

そういえば、浴室内に鏡がないので、鏡越しに何かが見えるとかいう心配もない。

あとここは2LDKの団地だから、夜、闇に包まれたリビングの闇から逃げるように一段飛ばしで寝室まで階段を駆け上がる必要もない。

大きくなったから怖い思いをすることが減ったように思っているけれど、怖いものを想像させるような要因自体が生活から消えているだけなのかもしれない。





2020年11月22日日曜日

 今日はたくさんの人を見た。

セブンイレブンに行ったら頭頂部のつむじから前髪を取っているため前髪のボリュームが多いお兄さんがレジにいた。後ろ半分の髪は多分肩先まであるようで、丸くお団子にまとめていた。

夕暮れ、手を羽のようにパタパタしてジャンプしている中年男性が遠くにいて何事かと思ったら縄跳びをしていた。

集合住宅のエレベーター待ちをしていたら、来たエレベーター内で小学生の男の子が手足を突っ張って空中に浮いていたので、私の存在に気づかれる前に死角へ移動して事なきを得た。

覚えてるのはこれくらい


今日は高島屋にて連れの方がポンタカードを持ってないから私のポンタカードを出していいとのことで、ポンタポイントがたくさんたまって嬉しかった。これは早急にローソンでポンタポイント使ってジュースを奢らないといけないレベル。

2020年11月6日金曜日

 きっかけ

2020年10月11日日曜日

 最近、取手駅の高架下にある取手市民ギャラリーで「取手市の巨木」についての展示をやっている。

龍禅寺のでかい金木犀が見頃ということで行ってきた。

庭に植えられたサイズしか見たことがなかったので、純粋にその大きさに驚いた。

大きいからってあたり一帯すごい匂いに包まれているわけでもなく、普通どころか匂いは弱いような気がした。雨上がりだからかもしれない。

一昨日と昨日は台風の接近で雨がかなり降っていたので散った花が綺麗なまま積もっていた。少し拾ったのでポプリにするため家で乾かすことにした。


その後柏に行って気になっていたヘアオイルの匂いを実際に嗅いできた。

オンラインショップで匂いを文字で説明されて想像するのはいいけど、実際嗅いで好みじゃなかったら嫌だなーと思って行くことにした。気に入ったらオンラインショップでリピートできるからネットで買えるのもありがたいことだ。

2020年10月7日水曜日

 



私は普段、パンにのせる目玉焼きは黄身が流れていくのを防ぐために黄身を潰して両面焼くようにしていて、そうやって焼いた目玉焼きのことを私は目玉潰し焼きと呼んでいる。黄身=目玉という認識


昨日セブンイレブンの「もっちもち食感のソーセージエッグマフィン」をバイトの休憩中に食べたら、入っていた卵は黄身を潰した目玉焼きだった。裏の原材料名一覧を見るとそこには「潰し目玉焼き」と書かれていた。

セブンイレブン的に「目玉焼き」という固有名詞は固定で、「潰し」という修飾語は固有名詞の前後どちらかにしかつかないという認識なんだなと思った。

2020年10月5日月曜日

 小雨が降ってきたけど目的地はもうすぐなので傘をささずにやり過ごそうとしたらめちゃくちゃ目に雨粒が入ってきて、二階から目薬どころじゃなかった。

2020年10月3日土曜日

透明な海の色と、船乗りたちをその歌声と姿で罠にかけるシーリーンと、それから愛と知性と愛知フィロソフィー)とあなたについての話

2020年9月4日金曜日

 

無いキャラの一生



2020年5月24日日曜日


許して、ぼくはこれより大きな声ではしゃべれない。

2020年5月20日水曜日

ここ最近、地震が頻繁に起こるので母から心配のLINEがきた。
今住んでいるところに引っ越す際、この建物は鉄筋コンクリート製で耐震基準をクリアしているという証明みたいなものを見せられた記憶があったので「鉄筋コンクリートだから」と返信するとすぐに「それなら安心」と返ってきた。心配が消える瞬間を見た。
自分で言っておいてなんなんだけどもそんなに鉄筋コンクリートへの信頼は厚いのかと思った。

世界五分前仮説というものがあるけれど、もし本当にそうだとして鉄筋コンクリートへの信頼もただの Fals Memory だったりしないだろうかとかこの人はきっと1ミリもよぎらないのだろうなと思った。


ぐるぐる考えても仕方がないので、非常用避難袋を買うことで安心を買ったような気持ちになっている。

2020年5月2日土曜日

4月は基本的に家でゆっくり過ごしていたら、気づいたら5月になっていた。4月の4月らしい手応えがあまりなかったのは進級によって新入生などとの新しい出会いというものがほぼ無かったからだろうなと思う。そういえば私は小中高の新しいクラスになった時と大学1年になった時は、はじめの一週間以内にクラスメイトの名前を名簿を見て漢字練習のように何度も書いて覚えるようにしていた。そういうドタバタだったり順応のための準備が必要になる場面が全くなく、春休みを延々と過ごしていたことで長い3月の後に5月が来たかのような感覚になるんだと思う。

名前
私は名前を覚えることは得意なのに顔を覚えることはそこまで得意でないらしい。名前と一緒に体験したエピソードは結びついていても、それがこの顔の人とだったかは確信が持てなくなる。私はとても線の少ない似顔絵を描くのだが本当にその極限までデフォルメされてキャラクター化された状態で人の顔を記憶しているところがある。前に流行っていた「友達コレクション」みたいな状態でみんなのことを記憶しているのだと思う。

2020年3月24日火曜日

今日久々に着ぐるみに入った。
試作品だったので目は開いておらず、入ると薄暗い個室のようだった。外からの声に任せて身動きを取ってみるけれどだんだん声の方向があやふやになってどっちが前でどっちが後ろなのかよくわからなくなった。進みたい方向や向きたい方向が無ければ前という概念はいらなくなってしまうわけで、ただ私がそこに残されるのみ。

2020年3月5日木曜日

今年から5年日記を書き始めている。
毎日寝る前に割とかかさず書いている。
今日は最近まで1週間ほど入院をしていたのでその期間の日記をメモなどを参考に一気に書いた。とても長い入院生活に感じていたけれど、日記に書いてみると一瞬で過ぎた日々のようで、そんなものかと思った。

2020年2月3日月曜日

エスカレーターは健常者の乗り物

引越して間もない頃、駅前のバスロータリー近くで視覚障害者の方が杖を上に上げて「誰か〜」と言っているのを見つけた。平日のお昼時で人が少なかったためその人はずっと杖を上げて立っていたようで、私は声を掛けた。近くの階段の手すりまで連れて行って欲しいとのことだった。しかしその階段はかなりの段数があるもので、裏にエスカレーターがあるからそっちを使えばいいのではと思い提案したが頑なに断られた。早く階段をのぼりたそうだったので、そういうものなのかと思い手すりまで腕を取って案内した。

よく考えてみればそりゃそうで、エスカレーターというものはどのタイミングで段に乗ってどのタイミングで降りればよいのか目で見てでしか判断ができない上、そもそもどちらが上りエスカレーターでどちらが下りなのかも判別が難しい。付き添えられれば乗れなくもないみたいだが経験が無い人にやってもらうことによる危険性は高い。そりゃ頑なに断るわけだ。

エレベーターに付き添うのがベスト
とっさに提案できるようになりたい

2020年1月31日金曜日

がんばってレポートを書いた

錯乱のニューヨーク
マンハッタンとガーデニング

「ババアの違法ガーデニング」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは自宅前の歩道やブロック塀の外側、ポストの上といった敷地外に植木鉢やプランターを置いて行われているガーデニングを指しており、低層住宅街や路地裏で展開されていることが多い。日本語版twitterで生まれた言葉であるため日本での例が多く挙げられているが、台湾など海外でも見られている。似たものに「ゲリラガーデニング」というものがある。これは街中の花壇やアスファルトの亀裂、道路の穴などに勝手に花を植えたり庭を作ったりする行為だ。これは勝手に植えるだけ植えて必ずしも世話をするとは限らないという点があり、グラフィティ的なものの場合も含んでいる。このゲリラガーデニングはイギリスを中心に「愛される違法行為」として今も活動が行われている。このような違法行為が蔓延している背景に自然が無いという意味で都市部の環境が劣悪であること、地方のコミュニティがきちんと機能していないことがある。そのため公共の場所の庭や公園というその土地の植生やガーデンデザインなど充分に検討する必要がある場所でのガーデニングが個人の自己中心的な意思によって行われている。
しかし、マンハッタンは違う。マンハッタンにおいては自然も個人の自己中心的な意思決定ではなく資本主義に基づくマンハッタンの要請により制御される。グリッドにより仕切られた、その制限された土地の中に自然を収めたセントラル・パークという人工のアルカディア絨緞。さらに過密の文化の需要に応えるために、フロアを上へ上へと重ねることで増えていく収容面積。マンハッタンでは土壌もその対象となり、ロックフェラー・センターの低層部分の屋上に現代版バビロンの空中庭園が作られることとなる。マンハッタニズムという過密に基づく快楽主義的アーバニズムにおいてはアスファルトの亀裂から現れる土壌さえもマンハッタンの要請に応える義務を感じるのではないだろうか。
そもそも庭という言葉は住宅などの敷地内に設けられた建造物のない広場といった建てられない部分を指すものである。セントラル・パークは最終的に建てられた部分と建てられない部分の対比によりその庭的な要素を高めている。ここでいう建てられた部分と建てられない部分というのは地球の地表、つまり地面を指している。しかしロックフェラー・センターの屋上庭園は建てられた部分の上に庭を設けている。セントラル・パークとは違い、建てられない部分というものをこれ以上フロアを重ねて収容面積を増やさないという意味で空中に見ているのだ。
著者のレム・コールハースはマンハッタンのゴーストライターとなりこの本を書くことでマンハッタンというマニフェストの無いまま群生してできた都市にマンハッタニズムという一応の定義を与え、私たちにマンハッタンというものに一つの大きな人格のようなものを感じさせる。庭から見える、マンハッタンにおける「建てられない部分」を地面だけでなく空中にも見出すという新しい意識の変化のスピードは凄まじい。それによりマンハッタンの要請には応えられたかもしれないが、地球の要請には応えられているのだろうか。人間がマンハッタンの要請に応えるようにどんどん建物を立てていく様子は地球にとってはゲリラ的であり、マンハッタンという一つの大きな人格が行う、より人工的で大規模なゲリラガーデニングのようだ。それはグリッドという種子を規則正しくばらまいた瞬間から始まっていたのかもしれない。
この本はマンハッタンのための〈回顧的なマニフェスト〉の書としてだけでなく、現代都市を語る上で核心となりうる様々な点が示されている。著者の鮮やかな語り口もあり遠い国のおとぎ話のように感じてしまうが、地続きの同じ世界で本当にあった出来事であり、当たり前のシステムとして現在に組み込まれている現実の話であると意識せざるを得ない。