2019年8月29日木曜日

テレビを見ていると当然のように「令和の〇〇」みたいなことをよく聞くようになって、聞くたびにそんな平成が終わったみたいなこと言わんといてくれやと思っていたけどちゃんと平成は終わっている

まだ2018年だと思っている節があるところと似た気持ちになる

2019年8月23日金曜日

少し前に「天気の子」という映画を観た。

その中での東京の天気は狂っているとされていて、狂っている/狂ってない について考えていた。

私は今まで狂っていると言われがちな人生だったような気がする。が、私自身は狂っていた自覚を持ったことは一度も無いわけです。狂っている/狂ってないは性格のように語られがちだけれど、これは第三者による相対評価、お前の当社比でしかないんだよ。「天然を自覚していない人が本当の天然だ」という説のように、狂っているかどうかは自覚することができないものであるはずで、第三者からの相対評価によって私は・彼は・あれは狂っていることにされる。
ただそれだけのこと

天気の子の中で東京の天気は都民によって(サンプルが地球の歴史に比べたら途方もなく短い期間だとしても)狂っていることとされ、狂っていない状態を切望される。

狂っているかどうかは相対評価の相対をどのマジョリティに設定するかで変わってしまう危うく脆いものであるはずなのに、「狂っている」というレッテルはその脆さを感じさせない強さ(それは揺るがない確信に基づく)を持っているからこうも厄介なんだ...