2021年7月29日木曜日

《3羽の死んだ鳥と墜落する辞書のある小さな部屋》について

 「マーク・マンダース − マークマンダースの不在」展より


ふわふわの柔らかいマットが床に敷かれた小部屋をくまなく歩く。
それは、この床の下のどこかにいる3羽の死んだ鳥を足裏の感触で見つけ出すためだ。
《3羽の死んだ鳥と墜落する辞書のある小さな部屋》というタイトルが付けられたこの小部屋は、部屋の中に立ったり、歩いたりすることによって鑑賞する。

「建物としての自画像」という構想に沿って作品制作を行うことで知られているマーク・マンダース。
東京都現代美術館で行われた展覧会では、1フロア全体(1000m2)を一つのインスタレーション作品として構築していた。私が気になった《3羽の死んだ鳥と墜落する辞書のある小さな部屋》は、そんなインスタレーションから外れた別フロアにポツンと展示されていた。

私たちは普段から靴越しに、アスファルト越しに、土越しに様々な死体の上を歩いているはずだ。
だがその死体の大半は土に還っている。そのため、私の足の下にあるのは死体ひとつひとつというよりは、「土」という生命が還るところだと認識している気がする。
しかし、このマンダースの作品には死体として剥製が用いられている。
剥製とは死亡した動物の表皮を剥がして防腐処理をし、骨や筋肉や内臓の代わりに損充材を詰めて縫い合わせたものだ。生物を生命のサイクルから外しモノ化させた、死体のぬいぐるみである。

つまり、3羽の鳥の剥製は「死体」というイメージを表象するものでしかないのだ。

キャプションに明記されていないだけで、このマットの下にはダニの死骸など他の死体もいるかもしれない。
にもかかわらず、マットの上を歩く私たちは「3羽の死んだ鳥」のみがこのマットの下のどこかにいることを想像する。
この小部屋は強いイメージを伴う言語によって、想像までもが操作される空間なのだ。

2021年7月27日火曜日

公園などにある銅像に服が着せられていたり、最近であればマスクを付けられている姿をしばしば目にする。それは「笠地蔵」という日本昔話の存在が大きいのではと思っている。道端にあるお地蔵さんは笠や頭巾をかぶらされていることが多く、その延長線で銅像にも同じようなスタンスで接している人が多いのだろう。

しかしそう言えば、服を着せられた銅像の中で一番テレビで見かけるのは韓国の慰安婦少女像のような気がした。銅像なので寒いわけないのだけれど、もこもこにされているイメージが強い。少女像のあるソウルの冬は北海道並みに寒いと聞いたことがあるので、やはり寒かろうと思った人に着せられているのだろう。銅像は人間と違って関節も動かないので羽織やマフラー、帽子やブランケットなど防寒具ならば簡単に上から被せることができることと、冬に晒された銅像に対する「寒かろう」という気持ちの相性が良いために銅像へ防寒具が着せられるのだろうかと想像した。

インターネットで調べていくと、少女像は元々裸足でべったり足裏が地面についた状態で制作されているはずなのに、靴下を履かされた状態の写真があった。靴下の足裏部分を切り取って、足首部分も切り込みを入れて靴下を履いているように見せているらしい。防寒具を身につけていても裸足だと寒そうに感じてしまう気持ちはわかるのだが、靴下を実際は履けていないにもかかわらず履けているように見せることでその気持ちが満たされるのは不思議なことだなと思った。


他の事例を探す中で、銅像の着替えを一年間見守って気づいたことという記事も見つけた。


服など布ものの方が先に朽ちるにもかかわらず銅像に服飾を施すというのは、銅像という(何事もなければ)後世に残っていくものを私たち人間の生きる時間軸に引き込む行為なのではと考えた。汚れたり季節が変われば取り換えたくなる素材を介して銅像と関わることによって、人間は目の前にある銅像とコミュニケーションのようなものを行っているように感じられる。それは後世に残らないからこそ安易にできる関わり方であり、このような目まぐるしく軽薄なコミュニケーションの台風の目的な存在としても銅像はあるのだろうかと思った。

2021年7月14日水曜日

日本展開している台湾のチェーン店に行った。
牛肉麺食べて、タピオカミルクティー飲んで、塩気のあるものが再び欲しくなって平たい鳥の唐揚げを食べた。私以外の人はタピオカをきれいに飲み切っていたのに、私はタピオカを吸っている途中でミルクティー切れになってストローの途中に留まったままになってしまった。

糖分を摂ったほうが回復する疲れと、タンパク質を摂ったほうが回復する疲れがある気がしていて、この時はタピオカで回復できるかと思いきや足りないのは肉だったなと食べ切ってから体で理解する感じがあった。

2021年7月9日金曜日

私は20歳の時に次女と一緒に静岡県の合宿免許へ行って自動車免許を取っている
しかし自家用車のある実家に住む次女と違い、私は上京先で運転する機会の極端に少ない暮らしをしていたのであっという間にペーパードライバーに成り果てていた。
そもそも次女の方が運転がうまめなことが合宿免許中に発覚したので素質と機会に恵まれて上達していっているのだろうけど、今回合宿免許には同行しなかった三女を含めた三姉妹でマリオカートをした時には大体1位が三女で、11位と12位(最下位)を次女と私で争うことが多かった思い出があったから、実世界で運転がうまいことは正直想定外だった。

しかし興味深い事実が発覚した。
私と三女は次女が運転する車に乗る夢を、次女は自分が車を運転する夢を見ることがあったのだ。次女は運転ができるという設定を三姉妹の夢の中で共有していたということだ。
(私のは厳密にいうと自分で運転しようとしたらうまくできなかったので次女に交代して運転してもらう夢だった。“次女は運転ができる”という設定が際立つ内容となっていた)


話を合宿免許に戻すと、
仮免を取るための試験というのは合格できそうなレベルに達してからしか挑戦させてもらえなくて、その判断を「みきわめ」と言うらしい。私はそのみきわめをもらうまでに少し時間がかかって、その間に次女は順調に公道での教習を進めていた。しかし運悪く次女は卒検に落ちてしまったため同じタイミングで卒検を受けられることになった。卒検では奇跡的に同じ車に乗るペアになり(多分名簿順だからペアになる確率はかなり高かった)、お互いの運転する車に初めて乗る機会となった。
次女の運転は絵に描いたような安全運転だった。
スキーでもボーゲンでびっくりするくらいゆっくり下っていく人なので人柄が出るなと思った。

卒検は無事二人とも合格したので安堵したのだけど、私はバックで駐車場に車を停める“いわゆる駐車”を合宿中に一回しかやる機会を与えてもらえなかったことに気がついた。しかもその一回もほぼ助手席にいる教官の言いなりで行ったチュートリアルみたいな駐車だった。車は走り出したらいずれどこかに駐車しないといけないのになんてこったと思った。

今は割と自由に運転できる軽自動車があるのだけれど、この駐車問題によってその自由は制限されている。発進してだだっ広いところに駐車することはできるのだけれど、帰ることができないのだ。なぜかというと自宅前の駐車場が狭いだけでなく、一番接触事故を起こしそうな斜め前の位置に停まっているのが見るからに大切にされている高級車だからであった。土日には欠かさず優しく磨かれているし、駐車中は雪国のようにワイパーは必ず上げた状態にされている。
なので助手席に誰か乗ってもらわないと恐ろしくて駐車できなくて、一人で車でどこかにいくことが憚られていたのだ。いや行くことはそこまで憚られることではないのだけど、行ったら帰れないので…。

そんな中最近自宅から大学まで車で通学する訓練を始めた。それは15分くらいの道のりで、大学は駐車場が広いのと車がそんなに多くない時間帯がわかっているので結構お手の物になってきた。帰りは同じタイミングで帰る人に助手席に乗ってもらうことで難を凌いでいた。

しかし今日ついにどうしても一人で駐車しないといけない瞬間が訪れた。

少し前に書いた「どうにか克服したい対象に対峙する素直な状態の身体をコピペして圧縮して消滅させる戦法」を応用して、自分なんだけれどもう一つレイヤーが上の自分みたいな状態で挑んだら切り返しも一回でうまく駐車できた。
「一回できた!」という成功体験は強烈なもので、自分の活動範囲が一気にグンと広がるような感じがした。(この全能感はその後一回でも擦ったり凹ませたりしたらあっという間に崩れそうになる脆いものということははなからわかっている。しかし「できる気がする」と1ミリでも思えるかどうかの差はとてつもなく大きいのだ)

車ライフ始まりの予感です

2021年7月7日水曜日

昨日秋葉原のマンホールの上でネズミが轢かれてペラペラになってて、
ネズミ版まるごとえびせんべいみたいだなと思った。

いや、これがリアル「トムとジェリー」かと後で思った。

2021年7月5日月曜日

私の通っていた小学校は二年に一回の計三回しかクラス替えをせず、毎年担任だけ変わる(こともある)学校だった。
一年生から同じメンバーなので二年生になるとかなり仲良くなっていて、その分遊びや話題もハイコンテクストになっていったので今思い返すと何が面白かったのか全然わからないことが多々ある。

今も現役の「おくちー」というあだ名はそんな小学二年生の時に生まれたものだ。

私の記憶では二年生の時にクラスの男子を中心におじいちゃんおばあちゃんの言動や所作を真似することが流行っていた。
そしてその流行の発起人であるメンバーたちの集い「老人会」が中間休みや昼休みに行われていた。そのメンバーはお互いを「〇〇じい」「〇〇ばあ」と呼び合っていて、それがグループ外のクラスメイトにもあだ名として定着していた。(〇〇には基本苗字の一文字目と二文字目が入る。田中なら「たなじい」、栗岡なら「くりばあ」という具合。)

その老人会のメンバーになりたくて老人の所作を自分なりに真似して「〇〇じい/ばあ」と呼んでもらおうとする人もいたし、逆に老人会のメンバーが非メンバーを急に「〇〇じい/ばあ」式で呼ぶこともあった。

ある日の給食の時間、メンバーの一人が私のことを「おくばあ」と呼んできた。
そして私を「〇〇ばあ」呼びすると「奥歯」と似ているということでツボられるという事案があった。

同時期に女子の間で「〇〇こ」呼びが流行っていた。(これは六年生まで続く)
浅井なら「あさこ」、寺山なら「てらこ」という感じ。私は「ちーこ」と呼ばれていた。

この二大勢力を足して割ってできたのが「おくちー」という見解である。

どちらの勢力にもそこまで傾いていない女子にある日呼ばれたのだ。
どういう経緯かは鮮明に思い出せないけれどそれはプールの授業が始まった頃で、その子がタオルを巻いた様子がてるてる坊主を想起させるので「てるちゃん」と一方的に呼び始めたら向こうが「おくちー」というあだ名を発明してきたのだったと思う。
その子とは三年と四年は違うクラスになったが「おくちー」はどんどん浸透していった。
そして五年生でまた同じクラスになった時に、自分が考えたあだ名が浸透したことについて誇らしげかつ手柄を示すような雰囲気で主張された。
その時に「このあだ名はこの子が考えたのだったな」と改めて記憶に刻んでおいた。
(「このことは覚えておこう」と思った事柄で今も覚えていることがいくつかある。そのうちのひとつで5歳頃に見たアニメ「ぴちぴちピッチ」の主人公の名前「るちあ」を自分の子供にもつけるべく覚えておいた。多分今となっては名付けないだろうけど、過去の私が忘れないように心の中で暗唱したから忘れたくても忘れられない。)

高校生になってからその子に「あなたが “おくちー” の考案者だ」という話をしたらすっかり忘れられていて、証人がいなくなってしまった。

私は過去の彼女の主張によって記憶を補強したから今でもこんなに覚えているのに。

2021年7月2日金曜日

小学一年生の時、音楽の授業は担任の先生ではなくおばあちゃんの先生が担当だった。その音楽の先生については自分の車のナンバーが「7216(何色)」だということを自慢気に話していたことだけ覚えている。

小学五年生と六年生の時の担任の先生の車のナンバーは「1359」だった。奇数の並び順だけど7が飛ばされているなと思った記憶がある。

「2474(西の梨)」「2714(2×7=14)」とかも羅列としては覚えているけど昔の実家の車のナンバーだったか、祖父母や友達の家の車のナンバーだったかは記憶が曖昧だということが分かった。
こういうことはある日ふと思い出すような事柄なので、そのきっかけを逃さないように非常にうっすらと考え続けようと思う。