畠山さんが言うようにこの世はせっかちな人とのんびりな人に二分されるとすれば、きっと私はせっかち側になる。なぜなら、人に言わせるとぼーっとすることがあまり身に付いていないからだ。たしかにそうだと思う。古美研で寺に行って庭を向いて座った時、時間が経つほど私は自分の眼底側に焦点が移動して庭を全く見ていなかった気がする。普段から、集中すればするほど自分の脳内に焦点があっていく感覚がある。その脳内ではずっと何かと対話しているし、何も考えないで空っぽになる時間をあんまり必要としていない気もしてきた。そういえば「外部に開かれる」みたいな言説に共感できた試しもない。
私は「見た」と認識したもの以外本当に見えていないらしい。例えば、泊まった旅館の部屋に飾られた絵の存在に就寝前になってやっと気づくというようなことが多々ある。逆に「見た」もののことは割と覚えている。私にとって見ることとは黒目を外部側に意識的に留めることであり、能動的なものなのだろう。しかしこれは私の性格だけでなくメガネにも原因があるのかもしれないと責任転嫁したい。私は普段から世界の、メガネによってフレーミングされている部分しか見えていないからだ。
競馬で用いられるブリンカーという器具がある。ブリンカーとは、馬の後方の視界を遮ることで周囲に惑わされず競争に集中させるための器具だ。私のメガネは課金しなかったおかげでフレーム側にいけばいくほど歪みが大きいので、しっかりと見えているのは本当に正面のみである。そのためブリンカーと同じ効果がメガネにもあるのではと考えたのだ。しかしこれは唯一しっかりと見える前方さえも見えていない理由にはならないのだった。
余談だが、お世話になっている弱視の方にかなり下手な絵を見せられ「どうしたら絵が上手くなるのかしら〜?」と聞かれ、「よく見ることですよ」と答えようとして口をつぐんだことを思い出した。