2025年2月16日日曜日

 今日は学部受験のために作ったポートフォリオを同居人に見せる時間があった。そしたら卒アルトークタイム(卒アルを見せながらエピソードトークをすること。我が家のリビングには卒アルが置いてあり、いつでもエピソードトークにまつわる資料を参照することができる)同様、芋蔓式に色々思い出せて楽しかった。

私は京都の美術予備校にメインで通いながら、夏と冬に短期で東京の予備校に通って受験対策をしていた。京都ではそもそも東京の美大を目指す人はほぼおらず、私の代は分校も合わせて東京第一志望は5人くらいだった。久々に予備校のHPを見たらその年の合格者が300人くらいだったので、生徒は350人くらいはいたのだと思う。約350人中5人、しかも5人の目指す学科はバラバラ、かつ京都の予備校の先生に東京の美大の受験ノウハウがあるわけでもなかったので、自分で東京の予備校の対策内容を偵察する必要があった。それで短期ながら東京の美術予備校で同学科を目指す人たちのクラスに入れてもらい、空いた時間に合格者の参作ポートフォリオやデッサンの再現を見せてもらって「こんな感じでやればいいんだ」という目処がついたところで京都に帰り、割と自力で対策を進めたのだった。

その時のことがわかるインタビューがこれ(長文メールで合格体験記を送ったら「合格者インタビュー」としてインタビュー形式に書き直されていてウケた。回答を元に逆算で質問を作っててすごい)

自力と言っちゃったけど、今ここに自分がいるのは高校の書道の先生に「奥野さんは東京だと思う」と言われたことと、初めて作った作品写真を彫刻出身の予備校の先生に見せたらいたく感動して褒めて伸ばしまくってくれた上に何故か「今年は人間関係がくる!」と大山を当ててくれたりしたからでした。

その学部受験用ポートフォリオには志望動機と別に制作全体を総括するようなステートメント文を載せていた。志望動機は書き間違いとか言い間違いに気づくとはどういうことかという話から始まっていて、ステートメントは自分にとっての一目惚れの定義について書いてあった。どちらも言い過ぎてない文章で、今の自分でも良いなと思えるものだった。そして、志望動機もステートメントも高校の時にちまちま書いてたブログの文章を元に書いたものだったなと久々にブログの存在を思い出した。そのブログは、高校入学前に母から「高校の間に3人くらいとは付き合ったら良いと思う」と言われたことを律儀に守れた結果付き合った3人目の相手がインターネットに精通している人で、その人に教えてもらって始めたものだった。ブログの他にもTwitterは一旦ROMって雰囲気を掴んだほうがいいとか、YouTubeは自分にも投稿できるし閲覧可能範囲も設定可能だとか、Googleアカウントの活用法とか教えてもらった。今インターネットで息するように色々やれているのはこの頃からやって見せてもらっていたからだと思う。

時を現在に戻す。同居人は一目惚れについてのステートメント文を読んで、私のマイブーム到来現象に合点がいったらしい。私が最近せいろが気になるとずっと言っているのを聞かされて、なんで急にある特定のものに興味を持つのか不思議だったようだ。私は昔のポートフォリオの中で、一目惚れを「日常として見逃してきたものにある日ピントを合わせた時に惚れてしまうというか頭から離れなくなる」ことと定義していた。その挙動については今も兼ね同意なんだけど、「一目惚れ」という表現は自分以外の人にとってミスリードを誘うかもとも思った。昔の自分が言いたかったのは、実際のファーストコンタクトではなく、ずっと存在は認識していたはずなのにある日急にアンテナに引っかかること=初めて自発的にピントを合わせた=一目惚れ、ということだ。自発的にピントを合わせるにはまず存在を認知してないといけなくて、実際ハマるかどうかはTPOと自分のコンディションによる……自分でハマるタイミングを選ぶことはできないという点は今読んでる『恋愛の哲学』で紹介されていたキエルケゴールの刹那的な愛(美学的なもの)ってやつに近そうだから「一目惚れ」という表現はあながち間違ってないのかも。この刹那的な愛は偶然任せで自分でコントロールができない以上実は自由なものではないという絶望がある——ということらしいんだけど、これはまさに到来しては去り行く私のマイブームのことだなと思った。今までに去っていったマイブームはメモによると温泉卵作り、『西瓜糖の日々』読みながら寝落ち、味噌の代わりに塩麹溶かす塩麹汁、シンク磨き、切り干し大根などがある。今はメープルシロップ入りカフェオレにハマっていて、せいろが気になっているところ。

2025年2月14日金曜日

 私にとって音楽は生活必需品じゃないっぽいということに薄々気づきつつある。意識的に音楽を聴くのは目の前の視覚情報に集中する必要がある時で、最近だと銅版画制作とか漫画ベタ塗り作業とか、つまり思考が挟まって手が止まると煩わしい時のようだった。「ようだった」と過去形なのは、個展が終わって一ヶ月くらい経った昨日、制作がひと段落して以降音楽を全く聞いていないことに気づいたからだ。それでちょうど隣を歩いていた同居人へ「最近音楽聞かんくなっとったわ」と話しかけたら「よかったね」と返されてちょっと面白かった。二人してあんま音楽を聞かないので、雑談で好きなアーティストを聞かれても歯切れの悪い返事しかできず変な空気になることが時々あった。こないだ久々に好きなアーティストを聞かれて変な空気をまた作ってしまった。この現状を打開したいと思ったのか、寝る前に同居人から「お互い好きなアーティストを決めてしまえば良いのでは」という解決策を提示された。「で、誰にすんの」と聞いたら「安室奈美恵」とのことだった。私はまだ決めてないので今後もしばらく歯切れの悪い返事が続くと思う。

2024年8月8日木曜日

数年前に突如たくあんが美味しく感じられるようになった感じで、最近赤飯が美味しく感じるようになった。コンビニにはよく赤飯のおにぎりが置いてあって、それを以前は赤飯なんて誰が買うんだろと思っていたのが、最近はよく買う側の仲間入りを果たしている。そのまま食べるのもいいけれど、豚汁・キノコのクリームスープ・エビのビスクなどさまざまなスープと合わせることが多い。塩むすびよりも味や食感に揺らぎがあって、ゆっくり食べると楽しい。
高校生の時には考えられないことだった。わらび餅目当てで同級生と高校の近くに新しくできた和菓子屋に寄った時、店主がサービスでパックに入った赤飯をくれたことがあった。ところが一緒にいた同級生たちも私も赤飯に魅力を感じておらず、若干なすりつけあう感じになったことを覚えている。赤飯をくれると言われた時、ちゃんと嬉しそうな顔をできていたか自信がない。今ならもっと喜べる。

話変わって、最近よく、なぜ人は誰かについて話すときに他の人に例えたがるんだろうと考える。例えって大体の場合失礼でしかないのに。
予備校講師をしていた時、新しく入ってきた生徒のことを今までいた生徒たちを掛け合わせたり割ったり足したり引いたりして例えるのが講師同士の会話において伝統芸能のように披露されていた。例えが披露される場面は度々あり、うまく例えられると同調してもらえて、その光景は笑点などの大喜利で回答に対して「うまい」と評価が下される時みたいだった。
そういえば、25年以上の歴史があるハロー!プロジェクトでも、新メンバーが入ってくるたびに既存メンバーで例えたがる人が散見される。例えることでどういう傾向を持つ子なのか示され、例えに挙げられた子を好きな人が興味を持って見る機会が生まれるという効果はあるのかもしれない。けれど新しいメンバー越しにあるメンバーを想起することは、目の前にいる人を見ているようで過去を再上映しているにすぎないようにも思える。
とはいえ、例えは本人に届かない形でひっそりやる分には楽しいものである。どちらも、人間の複雑さを削ぎ落として、キャラ的な特性の掛け合わせによって表現しようと試行錯誤する行為が過剰になった時に違和感を感じるのだろう。例えはあくまで例えであって、表現の限界はすぐそこにあることを前提に据えなければならない。

例えとは、全体及び部分の相似を示すことである。あるものとあるものがある点において似ているから例えることが可能になる。しかしその相似は相似であると認識した人のものであって、それをコンテクストを共有していない人へ伝えたところでその相似の発見への感動は伝わらない。大体の例えが失礼に聞こえるわけである。
しかし、相似の発見によりある人とある人を結びつけることは、いろんな意味でスッキリして気持ちが良いことなのだろう。自分に理解可能なサイズに情報をリサイズして、関係付けながら体系化していくこと。例えが理解の一助として働くことはもちろんあるだろうけれど、例えることが目的になると手持ちの札の組み合わせでしか他者を捉えられなくなる。

2024年7月20日土曜日

天気が良くなるにつれ頭痛がしてきたのでお昼寝をしたらたくさん夢を見た。目が覚めると外では雷が鳴り出していて、天気が悪くなるにつれ覚醒していった。

百年寝ようよで交代連載している「つみきマンガ」が先週で50コマ目に到達したので、今週更新の51コマ目からはページを変えようかなとふと思い立った。新しく投稿を作り、それぞれのページに互いのリンクを埋め込んで行き来できるようにしてみた。


2024年7月6日土曜日

他人が編みかけたものの続きから編むという、編み物のワークショップに参加した。
指でリリアン編みされたものの縁を拾うようにかぎ針で細編みをしていたら、一周したはずなのにさっき拾った目に一向に辿り着いておらず、気づいたらメビウスの輪ができていた。

右半分の輪っか部分がメビウスの輪のようになっている