2020年2月3日月曜日

エスカレーターは健常者の乗り物

引越して間もない頃、駅前のバスロータリー近くで視覚障害者の方が杖を上に上げて「誰か〜」と言っているのを見つけた。平日のお昼時で人が少なかったためその人はずっと杖を上げて立っていたようで、私は声を掛けた。近くの階段の手すりまで連れて行って欲しいとのことだった。しかしその階段はかなりの段数があるもので、裏にエスカレーターがあるからそっちを使えばいいのではと思い提案したが頑なに断られた。早く階段をのぼりたそうだったので、そういうものなのかと思い手すりまで腕を取って案内した。

よく考えてみればそりゃそうで、エスカレーターというものはどのタイミングで段に乗ってどのタイミングで降りればよいのか目で見てでしか判断ができない上、そもそもどちらが上りエスカレーターでどちらが下りなのかも判別が難しい。付き添えられれば乗れなくもないみたいだが経験が無い人にやってもらうことによる危険性は高い。そりゃ頑なに断るわけだ。

エレベーターに付き添うのがベスト
とっさに提案できるようになりたい

2020年1月31日金曜日

マンハッタンとガーデニング

「ババアの違法ガーデニング」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは自宅前の歩道やブロック塀の外側、ポストの上といった敷地外に植木鉢やプランターを置いて行われているガーデニングを指しており、低層住宅街や路地裏で展開されていることが多い。日本語版twitterで生まれた言葉であるため日本での例が多く挙げられているが、台湾など海外でも見られている。似たものに「ゲリラガーデニング」というものがある。これは街中の花壇やアスファルトの亀裂、道路の穴などに勝手に花を植えたり庭を作ったりする行為だ。これは勝手に植えるだけ植えて必ずしも世話をするとは限らないという点があり、グラフィティ的なものの場合も含んでいる。このゲリラガーデニングはイギリスを中心に「愛される違法行為」として今も活動が行われている。このような違法行為が蔓延している背景に自然が無いという意味で都市部の環境が劣悪であること、地方のコミュニティがきちんと機能していないことがある。そのため公共の場所の庭や公園というその土地の植生やガーデンデザインなど充分に検討する必要がある場所でのガーデニングが個人の自己中心的な意思によって行われている。
しかし、マンハッタンは違う。マンハッタンにおいては自然も個人の自己中心的な意思決定ではなく資本主義に基づくマンハッタンの要請により制御される。グリッドにより仕切られた、その制限された土地の中に自然を収めたセントラル・パークという人工のアルカディア絨緞。さらに過密の文化の需要に応えるために、フロアを上へ上へと重ねることで増えていく収容面積。マンハッタンでは土壌もその対象となり、ロックフェラー・センターの低層部分の屋上に現代版バビロンの空中庭園が作られることとなる。マンハッタニズムという過密に基づく快楽主義的アーバニズムにおいてはアスファルトの亀裂から現れる土壌さえもマンハッタンの要請に応える義務を感じるのではないだろうか。
そもそも庭という言葉は住宅などの敷地内に設けられた建造物のない広場といった建てられない部分を指すものである。セントラル・パークは最終的に建てられた部分と建てられない部分の対比によりその庭的な要素を高めている。ここでいう建てられた部分と建てられない部分というのは地球の地表、つまり地面を指している。しかしロックフェラー・センターの屋上庭園は建てられた部分の上に庭を設けている。セントラル・パークとは違い、建てられない部分というものをこれ以上フロアを重ねて収容面積を増やさないという意味で空中に見ているのだ。
レム・コールハースはマンハッタンのゴーストライターとなり『錯乱のニューヨーク』を書くことでマンハッタンというマニフェストの無いまま群生してできた都市にマンハッタニズムという一応の定義を与え、私たちにマンハッタンというものに一つの大きな人格のようなものを感じさせる。庭から見える、マンハッタンにおける「建てられない部分」を地面だけでなく空中にも見出すという新しい意識の変化のスピードは凄まじい。それによりマンハッタンの要請には応えられたかもしれないが、地球の要請には応えられているのだろうか。人間がマンハッタンの要請に応えるようにどんどん建物を立てていく様子は地球にとってはゲリラ的であり、マンハッタンという一つの大きな人格が行う、より人工的で大規模なゲリラガーデニングのようだ。それはグリッドという種子を規則正しくばらまいた瞬間から始まっていたのかもしれない。
この本はマンハッタンのための〈回顧的なマニフェスト〉の書としてだけでなく、現代都市を語る上で核心となりうる様々な点が示されている。著者の鮮やかな語り口もあり遠い国のおとぎ話のように感じてしまうが、地続きの同じ世界で本当にあった出来事であり、当たり前のシステムとして現在に組み込まれている現実の話であると意識せざるを得ない。

2019年12月30日月曜日

具なしナポリタン

https://okujoh.space/dotyaku1/

都市の土着料理という映像に出ています。
この映像で作っている具なしナポリタンは、脂肪と糖にグルタミン酸で味付けしたら絶対にうまいだろと思い作るに至った料理です。

2019年12月26日木曜日

点字郵便

点字器ではがきに点字で住所を打って郵便に出したら、ちゃんと読み取って届けてくれるらしい。知らなかった。

2019年12月21日土曜日

ぬか

テレビをつけるとぬか漬けの魅力を紹介する番組をやっていて、ぬか漬けの虜になっているある女性がフィーチャーされていた。

彼女は自宅にある祖母から受け継いだ50年もののぬか床を見せてくれたり、キッチンでキュウリのぬか漬けとゆでたまごのぬか漬けで作るたまごサンドの作り方を披露してくれたり、何十種類もの食材(何百だったような気もする)を今までぬかに漬けてきた事実とその結果どれがおいしかったかの考察等様々な方向からぬかとの暮らしを見せてくれた。そのぬかとの暮らしぶりについては彼女の自宅で、その後の彼女へのインタビューは近くの川辺で撮影されていた。

彼女は川辺を散歩しながらインタビューに答えているのだが、なぜか手に壺のようなものを持っている。中身はぬかだった。

「天気が良い日はこうやって一緒に散歩をしたりします」

そんなことを言っていたがテレビだからなのか本当に普段からそんなことをやっているのか、わからなかった。壺はその大きさも相まって一見骨壺のようで、亡き故人と散歩をする人にしか見えなかった。壺は茶色で持ち手があるものだったのでよく考えれば骨壺ではないとわかるのかもしれないが、もし公園で彼女のような人に遭遇した時まさかぬかと散歩しているとは夢にも思わないだろう。骨壺の方がまだわかる。

最後に彼女が川辺の柵に寄りかかった状態でぬかへの愛を語っている時、手元の壺の蓋が開けられぬかがこちらに見えるようになっていた。ぬかがこっちを見ているようでなんとなく気味が悪かった。