2023年4月18日火曜日

ジョン・バージャー『見るということ』より「なぜ動物を観るのか?」を読んで、ぬいぐるみと動物について想起したことを書いてみる。人間がその居住エリアから動物を追いやって生きるようになってから、人間と動物の関係はその長い歴史のうえでの関係とは異なるものになっていった。つまり、今の私たちは動物のまなざしを見返すことができると思っている。それは、私たちが博物館、写真集やドキュメンタリー、あるいは生きていたとしても動物園の動物やペットのように、人間の都合の良いように動物を見ているためである。

そのもっとも極端なものに動物の剥製があるとすれば、このいまの人間と動物の関係の傾向を「動物のぬいぐるみ化」と言ってみることはできないだろうか。ぬいぐるみと剥製は、器官を綿に置き換え、生前のシルエットを布や皮で包むことで再現している点で相似である。これらは生き物らしいものでありながら、人々を命への責任から解放し、手放しに愛着を抱いたり、一方通行な関わりを可能にする。造花や世話が楽な観葉植物もこの系譜にあるように思われる。

ぬいぐるみみたいな動物。この言葉には本来動物のほうが先にあり私たちの周りにいたのにも関わらず、今の環境においてはぬいぐるみの方が私たちにとって身近なことをよく表している。

歌人の穂村弘が主催する短歌投稿企画『短歌ください』の中で穂村は
「ぬいぐるみみたい」その猫の瞳に君は食えない肉に映ってる(ユウジ・男・19歳)
という短歌に対して「猫が『ぬいぐるみみたい』なんじゃなくてぬいぐるみが猫みたいなんだけど、現代に生きる私たちはこの逆転モードに洗脳されているようです。プラネタリウムみたいな星空、とかね。」と述べている。

そういえば、高知県にある海底散歩ができる施設「足摺海底館」のSNSでは、毎日透視度が投稿されている。海中が天候によって濁り、何も見えなくなることが多いためだ。加えて、ディズニーシーのアトラクション「タートル・トーク」とは異なり、魚の姿が見えるかどうかも運次第らしい。

動物園での動物の姿にがっかりすること、海が水族館ほどの驚異に満ち溢れていないように見えることは、どちらも人工のある種完璧なイメージがその完璧さゆえに現実と乖離することによって起こっている。

この人工の世界の方が世界としてまず先にあるように知覚される逆転モードの世界を私たちは生きている。この逆転モードの世界は一方的にまなざしを向けたり、愛着を向けたりできる「ぬいぐるみ」のような世界なのかもしれない。しかし、ぬいぐるみは用途がないからぬいぐるみなのである。