2023年1月24日火曜日

1日の間に逐一メモしたものに付け足していく形で日記を記述してみる
  • 朝、初めて灯油ストーブで山型パンを焼こうとしたら、焼きすぎて炭化したパンになった 灯油ストーブの上面でスープを温めることはよくあった。ストーブでパンも焼けると聞いて、目玉焼きを5分タイマーかけて焼くのと同時並行でストーブ上にパンを置いといてみたら、トーストというよりも炭を先に思い浮かべた方が早いくらい黒焦げになってしまった。ストーブトーストは1分半くらいでタイマーをかけた方が良さそうだと学んだ。目玉焼きも5分だと半熟ではなくなっていたので全部読みを間違えていた。
  • 本を返して『失われた時を求めて』を借りた そろそろ本の返却締め切りなので昨日急いで『世界民話考』を読み切った。一緒に借りていたウサギについての本2冊はとっくの昔に読み切っていた。明け方あたり小雨が降っていたようだったけれど、10時頃にはかなり晴れてポカポカしていたので徒歩5分ほどのところにある図書館に本を返しに行った。そろそろ『失われた時を求めて』を読んでみようと思って、1巻と『プルーストの部屋』という解説書みたいなのを借りることにした。外国文学コーナーで本を探しているときに『超男性』という澁澤龍彦訳の小説が目に止まったので、これを合わせた3冊借りて帰ってきた。
  • セブイレで紫芋羊羹を二つ買った  小さい羊羹は賞味期限が半年くらい持つのと、通訳の合間は無性に甘いものを食べたくなるので一個はカバンに入れとくようにしている。特に秋から年末にかけて季節限定で販売される安納芋羊羹を好んでいた。安納芋独特のねっとり感と蜜芋の風味を再現していてとても美味しいのだ。ところが、毎年楽しみにしていた安納芋羊羹とついにこの秋出会えなかった! かつて安納芋羊羹がいた場所に今いるのが今日買った紫芋羊羹だ。紫芋羊羹はどっちかというと芋きんのようなホクホク感を強めに感じる。調べてみると今秋も安納芋羊羹の取扱店は所々あったらしいが、私はセブンイレブンに入るたびに羊羹売り場をチェックしていたにも関わらず一つも出会えなかった。非推奨の季節もの扱いになったらしいという噂も小耳に挟んだ。午後の紅茶パンジェンシーのように、安納芋羊羹も静かに姿を消していくのか……
  • 先生宅から駒場リサーチキャンパスまで歩いた そろそろ10年に1度の寒波が来るとかであったかい格好で来たが、お昼はかなりポカポカしていて歩いたら汗ばむくらいだった。高校生総勢50人くらいとすれ違ったと思う。昼に一斉に帰るということはテスト週間なのか?
  • 東大生協ではココアが100円だった 先生によるとめちゃくちゃ熱いらしい。通訳中ドリンクをテイクアウトすることは至難の業なので確認することは叶わないだろう。
  • 芋羊羹と合わせるために緑茶を淹れた 研究室に着いたら汗が引いてきてちょっと体が冷えてきたので温かい緑茶を淹れた。お〜いお茶のティーバッグだったので俳句が書いてあったはずなのだけどなんて書いてたか一瞬で忘れた。緑茶と紫芋羊羹の相性はとっても良かった。
  • ベーコンを買わないといけない ハンバーグを作ろうと思ってメモしたけど今日は結局作らないことになった。でも多分明日作るので明太子買うときに一緒に買った。ハム売り場の前で思い悩んでいるお姉さんがいて、隣のベーコン取るとき気まずかった。
  • 復学届を出さなきゃいけない 今月末締め切りだからマジで忘れないようにしないといけない
  • 今日の夜はハンバーグ こけが学部同期の手伝いで奢ってもらうことにならはったので、かねふくのちょっといい明太子買って帰って晩御飯はたらこパスタに変更。おろし生姜と太白胡麻油で和えるレシピが本当に美味しい。乳化するまでかき混ぜ続けるともっと美味しい気がする。パスタの乳化についていまいちちゃんと理解するタイミングがなくて未だに全部勘でやってる。同時進行で干し芋と大根の味噌汁を灯油ストーブ上で作ったけど、沸騰しなかったので大根があんまり柔らかくならなかった。干し芋の味噌汁は本当に美味しい。

  • 『失われた時を求めて』 鈴木道彦編訳 行きと帰りの電車内でずっと読んでたけど全然進まなかった。しかも借りた本は編訳版で3巻で全貌を把握するタイプのものだと判明した。元のは全部で13巻くらいあるらしいからこれくらい誤差だなと思い、一旦借りた編訳版の方を読み切ってみることにした。 最初に小説を書いた人の見事なところは、人間の情動の装置においてイメージが唯一の本質的な要素である以上、本物の人物をきれいさっぱり消し去ってしまうという単純化こそが決定的な完成となることを理解していた点にある。一人の現実の人間は、どんなに私たちがその人と共感しようとも、その多くの部分は感覚で知覚したものであり、つまりこちらには不透明なままで、私たちの感受性には持ち上げることのできないようなお荷物になっている。不幸がこの人を襲ったとしても、そのことで私たちが心を動かし得るのは、彼について持っている全体的な概念のほんの小部分においてにすぎない。そればかりか、彼自身も自分の不幸を悲しみ得るのは、自分にかんする全体的な概念のほんの小さな部分においてにすぎないだろう。小説家の発見は、魂のはいりこみ得ないこのような部分を、同じくらいの量の非物質的部分、つまり魂が同化し得るものに置き換えてしまおうと考えついたことだった。こうなれば、この新たな種類の架空の人間たちによる行動や心の動きが真実のように思われようと、なんらかまうことはない。私たちはその行動や心の動きを自分のものにしてしまったのだし、また私たちが熱っぽく本のページをめくっているときも、作中人物の行動や気持が作り出されるのは私たちの内心においてであり、それに操られて私たちは思わず息をはずませ、目を輝かせているのだから。そして、純粋に内的な状態では、どんな感動も必ず十倍に拡大されるものだし、小説がまるで夢のように、それも睡眠中に見る夢よりもはっきりしている夢、その思い出が長つづきする夢、とでもいったような形で、私たちの心をかき乱すものだが、こういった状態にひとたび小説家によって投げこまれると、そのときたちまち私たちの心には、せいぜい一時間かそこらのうちにありとあらゆる可能な幸福、可能な不幸が解き放たれるのである。これが実生活だったら、幾年もかけてその幸福や不幸のいくつかのものをやっと知るくらいであろうし、その最も強烈ないくつかは、それがゆっくりと起こるために知覚できず、その結果私たちにはどうしても知り得ないものになっただろう(こんなふうに私たちの心は実生活では変化する。そしてこのことこそ最大の苦痛なのだ。ところがその苦痛を私たちはただ読書を通して、想像の中で知るばかりである。現実では、自然のある種の現象の起こり方のように、心は徐々に変化してゆくものなので、たとえそのさまざまな状態は次々と認めることができるとしても、これとは逆に、変化の感覚それ自体は与えられないのである)。p.102-103
  • ヤムママー用の冷凍シーフードを二袋買った 昨日鶯谷のライフでKOKAというママーですらない袋麺を買って、これでヤムママー(ヤムコカ?)やるために冷凍シーフードを買った。イカが大きいと嬉しい気持ちになるので、イカが大きめのメーカーのを選んだ。