公園などにある銅像に服が着せられていたり、最近であればマスクを付けられている姿をしばしば目にする。それは「笠地蔵」という日本昔話の存在が大きいのではと思っている。道端にあるお地蔵さんは笠や頭巾をかぶらされていることが多く、その延長線で銅像にも同じようなスタンスで接している人が多いのだろう。
しかしそう言えば、服を着せられた銅像の中で一番テレビで見かけるのは韓国の慰安婦少女像のような気がした。銅像なので寒いわけないのだけれど、もこもこにされているイメージが強い。少女像のあるソウルの冬は北海道並みに寒いと聞いたことがあるので、やはり寒かろうと思った人に着せられているのだろう。銅像は人間と違って関節も動かないので羽織やマフラー、帽子やブランケットなど防寒具ならば簡単に上から被せることができることと、冬に晒された銅像に対する「寒かろう」という気持ちの相性が良いために銅像へ防寒具が着せられるのだろうかと想像した。
インターネットで調べていくと、少女像は元々裸足でべったり足裏が地面についた状態で制作されているはずなのに、靴下を履かされた状態の写真があった。靴下の足裏部分を切り取って、足首部分も切り込みを入れて靴下を履いているように見せているらしい。防寒具を身につけていても裸足だと寒そうに感じてしまう気持ちはわかるのだが、靴下を実際は履けていないにもかかわらず履けているように見せることでその気持ちが満たされるのは不思議なことだなと思った。
他の事例を探す中で、銅像の着替えを一年間見守って気づいたことという記事も見つけた。
服など布ものの方が先に朽ちるにもかかわらず銅像に服飾を施すというのは、銅像という(何事もなければ)後世に残っていくものを私たち人間の生きる時間軸に引き込む行為なのではと考えた。汚れたり季節が変われば取り換えたくなる素材を介して銅像と関わることによって、人間は目の前にある銅像とコミュニケーションのようなものを行っているように感じられる。それは後世に残らないからこそ安易にできる関わり方であり、このような目まぐるしく軽薄なコミュニケーションの台風の目的な存在としても銅像はあるのだろうかと思った。