2024年8月8日木曜日

数年前に突如たくあんが美味しく感じられるようになった感じで、最近赤飯が美味しく感じるようになった。コンビニにはよく赤飯のおにぎりが置いてあって、それを以前は赤飯なんて誰が買うんだろと思っていたのが、最近はよく買う側の仲間入りを果たしている。そのまま食べるのもいいけれど、豚汁・キノコのクリームスープ・エビのビスクなどさまざまなスープと合わせることが多い。塩むすびよりも味や食感に揺らぎがあって、ゆっくり食べると楽しい。
高校生の時には考えられないことだった。わらび餅目当てで同級生と高校の近くに新しくできた和菓子屋に寄った時、店主がサービスでパックに入った赤飯をくれたことがあった。ところが一緒にいた同級生たちも私も赤飯に魅力を感じておらず、若干なすりつけあう感じになったことを覚えている。赤飯をくれると言われた時、ちゃんと嬉しそうな顔をできていたか自信がない。今ならもっと喜べる。

話変わって、最近よく、なぜ人は誰かについて話すときに他の人に例えたがるんだろうと考える。例えって大体の場合失礼でしかないのに。
予備校講師をしていた時、新しく入ってきた生徒のことを今までいた生徒たちを掛け合わせたり割ったり足したり引いたりして例えるのが講師同士の会話において伝統芸能のように披露されていた。例えが披露される場面は度々あり、うまく例えられると同調してもらえて、その光景は笑点などの大喜利で回答に対して「うまい」と評価が下される時みたいだった。
そういえば、25年以上の歴史があるハロー!プロジェクトでも、新メンバーが入ってくるたびに既存メンバーで例えたがる人が散見される。例えることでどういう傾向を持つ子なのか示され、例えに挙げられた子を好きな人が興味を持って見る機会が生まれるという効果はあるのかもしれない。けれど新しいメンバー越しにあるメンバーを想起することは、目の前にいる人を見ているようで過去を再上映しているにすぎないようにも思える。
とはいえ、例えは本人に届かない形でひっそりやる分には楽しいものである。どちらも、人間の複雑さを削ぎ落として、キャラ的な特性の掛け合わせによって表現しようと試行錯誤する行為が過剰になった時に違和感を感じるのだろう。例えはあくまで例えであって、表現の限界はすぐそこにあることを前提に据えなければならない。

例えとは、全体及び部分の相似を示すことである。あるものとあるものがある点において似ているから例えることが可能になる。しかしその相似は相似であると認識した人のものであって、それをコンテクストを共有していない人へ伝えたところでその相似の発見への感動は伝わらない。大体の例えが失礼に聞こえるわけである。
しかし、相似の発見によりある人とある人を結びつけることは、いろんな意味でスッキリして気持ちが良いことなのだろう。自分に理解可能なサイズに情報をリサイズして、関係付けながら体系化していくこと。例えが理解の一助として働くことはもちろんあるだろうけれど、例えることが目的になると手持ちの札の組み合わせでしか他者を捉えられなくなる。