2021年8月31日火曜日

 私は昨日夢を見ました。とても希望に溢れているようで絶望的なものでした。実は逆で、とても絶望的なようで希望に溢れたものだったような気もします。そして自分が思っているよりも、何も執着するほど大切じゃないことを思い出しました。なぜなら、高低差の激しい心につい惑わされてしまいますがこの世は、人生は、グラデーションに満ち満ちているからです。
 グラデーションの存在を認めたくない瞬間は誰にでもあると思います。しかし、だからと言って何かに対して「ダメ絶対」と行動を強制することは思考停止に他ならず、このグラデーションの存在を否定することにつながります。そしてグラデーションの否定は執着につながります。生への執着も例外ではありません。本来、死は点でなくて線であり、フェードアウトするものだからです。どんな生き物もだんだん死んでいく過程にあるように、この世の出来事の大半はグラデーションを内包しているのです。
 無理に劇的な効果を望むことはグラデーションを置いてけぼりにすることでもあります。その行動がいずれグラデーションの中に位置づけられる日がくるまで、そのことが吉と出たのか凶と出たのかはわかりません。急に行動を起こすことは、グラデーションという流れに流されている状態からジャンプするようなものなのです。それは抑圧からの解放を爆発的に起こすことなのかもしれません。行動を起こしたのち「偏見を無くそうと思ったのに新しく偏見を作っちゃった」と感じられることがあるのは、急にグラデーションからジャンプしたことにより周囲の認識が追いついていないからなのでしょう。自分が来年大きめの手術をするかもしれないから他の心配事には目を瞑らせて欲しいと願ったとしても、だからと言って流れゆくグラデーションを堰き止めることはできません。私たちに人生の要素を一つずつこなすことは到底不可能で、常に様々なグラデーションの流れに足を取られながら生きていくしかありません。私は私が思っているよりも揺蕩う心に過敏に反応しすぎることは諦めて、ゆっくりと朽ちていくこの肉体の声にしっかりと耳を傾けてあげなければならないのです。